【file13】(final)イエス=キリストを知りたいあなたへ
今回はいよいよ最終回です。12月25日にイエス=キリストの最後の物語が書けるなんて何か運命のようなものを感じます。これもイエスで言うところの「天使の予言」なのでしょうか?まあ、私はバリバリの浄土真宗なんですが。。。笑
①.最後の晩餐
イエスが十字架にかけられる1日前、木曜日の午後のことでした。イエス一行は過越祭の食事の準備に取り掛かっていました。
イエスは、ペトロとヨハネに水がめを持っている男性を見つけて、「部屋を探している」と告げるように命じました。彼らはイエスの言葉通りに水がめを持つ男性に声をかけたところ、二階の大広間を借りることが出来ました。
そして夕方、十二人の弟子たちと食事の席に着きます。
これがレオナルド・ダ・ヴィンチの名画で名高い『最後の晩餐』です!
いよいよ最期の時が近づいたと知ったイエスは、弟子たちに惜しみのない愛を与えようと考えます。
なんと、夕食前に立ち上がって弟子たちの前に跪くと、彼らひとりひとりの足を洗い、手ぬぐいで丁寧にぬぐいます!
ユダヤでは、客人の足を洗う習慣はありましたが、それは奴隷や弟子の仕事でした。
イエスは相手に奉仕する人間としての態度を示したといわれています。しかしこの行為は、楽しい食事の席にふさわしい作法に反していました。
彼の振る舞いに弟子たちは驚き、困惑しました。自分の番が来たとき、師が身を貶めるようなことをして欲しくなかったペトロは、足を洗ってもらうことを拒否しました。
しかし、断固としてペトロの足を洗いました。
『私があなたの足を洗わなければ、私とあなたは関係なくなる。』
とペトロに伝えます。
そして彼はイエスの心遣いをありがたく受け入れたのでした。
足を洗い終えたイエスは、弟子たちと一緒に食事をします。この食事の中でイエスはパンを自分の肉として、ぶどう酒を自分の血として弟子たちに分け与えます。
これはイエスが多くの人たちのために自分の身を捧げたことを意味しています。
またパンを与えるのは、自分の使命を弟子たちに委ねることであり、ぶどう酒はイエスの死によって結ばれる神との新しい契約を祝う喜びの酒だという説もあります。
②.弟子たちの裏切りを予言する
ところがこの食事中、イエスが衝撃的な予告を口にします!
『弟子のひとりが裏切る。』
というのです!!
弟子たちは騒然として「自分ではない!!」と弁解します。
続けてイエスは
『それは私がパン切れを浸して与える者だ。』
といい、そのパン切れをユダに与えました。
そしてイエスはユダに
『しようとしていることを今すぐしなさい。』
とだけ告げました。
するとユダは外へ飛び出して行きます。他の弟子たちは気づきませんでしたが、イエスが言った通り、裏切り者とはユダのことだったのです!!
しかし、裏切りはとユダだけではありませんでした。
イエスはペトロにも
『あなたは鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。』
と裏切りを予告します。
ペトロは強くこれを否定しますが、のちに悲しい現実となってしまいます。
最後の晩餐を終えたイエスは、弟子たちと共に出発します。まだ夜は明けていませんでした。しばらくすると、松明を手にした武装集団が近づいてくるのが見えました。
なんと、その中には十二人の弟子のひとりであるユダの姿がありました!
ユダが前に進み出て、合図をしたのと同時に群集は、一斉にイエスに襲いかかります。
弟子たちはそれに反撃しようと武器を手に取り戦います。
ペトロは剣を抜いて、イエスを捕らえた兵士の耳を切り落としました。
しかし、イエスが剣を鞘に納めるようにいいます。
剣という世俗の力に頼ろうとするペトロ の行為は、神に対する背信行為とイエスが叱責します。
ここに至っても未だにペトロは、イエスの弟子になりきれていなかったといわれています。
続けて、イエスの思いは捕まえに来た群集にも向けられました。
『今まで私が神殿で教えていたときには捕らえなかったではないか!!』
と糾弾します。
しかし最後には
『このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである』
と続けました。
こうして、イエスは逮捕されてしまいます。ペトロ とヨハネを除いて、弟子たちは皆逃げ出してしまいました。。。
③.イエスの逮捕
捕らえられたイエスはエルサレムの最高法院に連れて行かれます。そこで大祭司の尋問を受けることになります。ここでイエスは無言を保ち続けます。
イエスを死刑にする気でいた大祭司は、無言を貫くイエスから明確な罪が見出せないことでイラだっていました。
そこで
『お前は神の子、メシアなのか?』
とイエスに迫ります。
イエスは静かに
『あなたのいう通り』
と答えます。
大祭司は言葉じりを捉え、神への冒涜であると断定します。
そして、イエスの死刑が決まりました。
この様子を少し離れた場所からペトロは注意深く伺っていました。
すると大祭司に仕える女中が彼に目を止めて、この人はイエスの弟子ですといいます。
ペトロは怖くなって、そんな人は知らないと打ち消します。
これが第一の否定です!
続けて、ペトロに耳を切り落とされた人の兄弟だった別の召使いが、お前はイエスの仲間だと言い張ります。
しかしこの時もペトロは即座に否定して、あの男とは何の関係もないと反論しました。
これが第二の否定です!!
しばらくするとペトロの言葉遣いからペトロがイエスの弟子だと見抜いた召使いから、イエスと一緒にいた連中だと指摘されます。
しかし、今度もペトロは、イエスのことなど知らないと繰り返します。
これが三度目の否定です!!!
その瞬間!!
鶏が鳴いてしまいました。。。
『あなたは鶏が鳴く前に、三度私のことを知らないと言うだろう。』
このイエスの予言が、現実のものになってしまいました。。。。
ペトロはイエスの言葉を思い出し、涙を流しました。。。。
④.裁きのあと
最高法院で裁かれたあと、イエスはユダヤ総督であるポンティオ・ピラトのもとへ連れて行かれます。死刑判決にはローマ当局の承認が必要だったためです。
なんとしてもイエスを死刑にしたい大祭司たちは、イエスはローマへの反逆人という虚偽の罪をでっちあげます。
ピラトは、一言も弁明しないイエスの態度から反逆者でないことを見抜きました。ところが大祭司たちは、イエスの赦免に同意しようとする気は全くありません。
困り果てたピラトは、イエスの出身地の領主のもとへ身柄を送ります。
しかし、無言を貫き、神の力を見せないイエスに領主は憤慨し、再びピラトのもとに送り返したのでした。
そこでピラトはあることを考えます。
過越祭では、ひとりだけ罪人を赦免出来る総督の権限を使って、群集の力でイエスを釈放しようとします。
つまり、群集に判断を委ねたのです。
この時、死刑の判決が出されたのは、イエスと殺人犯のバラバという男の2人でした。
ピラトは当然、群集はイエスを選ぶだろうと考えていました。
ところが、群集が釈放を望んだのはバラバの方だったのです!!
ここでピラトはイエスに死刑の判断を下します。
『この人の血について自分には責任がない。お前たち(群衆)の問題だ。』
と責任逃れの言葉を残して。。。
あれだけイエスを慕い、メシアと崇めていた群集が、どうしてイエスの死刑を望むことになったのでしょうか。
それは
『メシアであるにも関わらず、一向にローマからの独立闘争に立ち上がらないイエスに愛想を尽かしたため』
といわれています。
彼らにとってメシアとは
『ユダヤ人をローマの抑圧から解放するために神から遣わされた王』
でありました。
しかし、イエスの考えるメシアとは
『ユダヤの地に繁栄をもたらす者ではなく、全人類の罪を赦し、救う存在。』
というものでした。
つまり、群集の考えるメシア像とかけ離れた行動や教えをしているイエスに、裏切られたという気持ちが大きく、それが顕著に表れたのが死刑という選択だったのです。
⑤.ゴルゴダの丘
民衆にも裏切られ、死刑判決を受けたイエスは、いよいよ最期の時を迎えます。
罪人になったイエスは人々に憎しみの言葉を浴びせられます。兵士たちはイエスの服を剥ぎ取り、赤いオーバーコートを着せ、茨の冠を被せて
『ユダヤ人の王、万歳!!笑』
と嘲ります。
さらに棒で頭を叩き、つばを吐きかけ侮辱したのち、イエスにもとの服を着せ、その背中に十字架を背負わせます。
そして十字架を背負ったイエスは、処刑場となるゴルゴダの丘へと続く『悲しみの路」へと引き立てられていきます。
午前9時、ゴルゴダで裸姿のイエスの手足に釘が打ち込まれ十字架に架けられます。ここでイエスは麻酔の役割を果たすぶどう酒を断り、苦痛に耐えます。
柱の上には
と罪状の札が掲げられていました。
さらに群集の罵声と愚弄で追い討ちをかけました。
イエスの左右で十字架に架けられた盗賊は言いました。
『お前はメシアではないか!!自分自身と我々を救ってみろ!!』
するともうひとりの盗賊は
『我々は自分のやったことの報いを受けているのだから当然だ。しかしこの人は何も悪いことをしていない。』
とたしなめます。
イエスはこの盗賊に祝福を持って答えます。また自分を嘲笑する人々にも
『彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』
と祈りを捧げます。
昼12時、辺りが突然暗闇に覆われました。イエスは呼吸が苦しくなり、飢えと乾きと絶望に、長く苦しむことになります。
午後3時、イエスは十字架の上で死の苦痛に耐え続けたましたが、ついに最期の時が訪れます。
『我が神!!我が神!!なぜ私をお見捨てになったのですか!!!』
と絶叫します。そしてイエスは、最後の力を振り絞って
『成し遂げられた。。。』
と口にして息絶えます。
この瞬間、人類の罪の犠牲としてイエスが捧げられ、人は神と和解をしたとされています。
当時、人間は生まれながらにして罪であるとされていました。そしてその罪人である人間は神の国(天国)には入れないという考えがありました。
そしてその罪を神から赦してもらうためには生贄が必要でした。
これをイエスは自ら生贄となることによって、すべての人間の罪を取り去り、永遠の命を与えてくださった(神の国へ行けるようになった)ということを意味します。
つまり、イエスの死は、人類の罪を赦すための行為だったのです!!
⑥.復活
イエスの最期を看取ったのは弟子のヨセフとイエスの母マリアと数名の女性たちでした。そしてイエスは処刑場の近くに埋葬されることになります。
3日後、母マリアと2人の女性がイエスの遺体に塗る香料を持って墓へ出向きます。
すると、イエスの墓を塞いでいた石は脇へ転がされており、見知らぬ若者がイエスの復活を告げられたといいます。
一方、11人の弟子たちはエルサレムで再会します。彼らは大祭司の報復を恐れて自分たちのいる家に鍵をかけていました。
そこに突然イエスが現れます。
『あなた方に平和があるように』
と伝えます。
弟子たちは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思っていました。
弟子たちのびっくりした様子に驚いたイエスは、釘で打たれた手と足の傷痕を見せました。
『触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなた方に見える通り私にはそれがある。』
目の前にいるのが本物のイエスと分かり始めた弟子たちは、喜びをあらわにしました。
そしてイエスは弟子たちに最後の教えというべき言葉を送ります。
『イエスは天、地において普遍的な権威を与えられた。』
『世界中に福音を伝える伝道者となり、洗礼を授けなさい。』
そしてイエスは復活してから40日後、昇天していったのでした。
あとがき
イエス=キリストの死後、ヨーロッパ世界では国教となり、多くの信者を増やしました。ところが中世では、イエスの教えは歪曲され、拡大解釈され、権力者に都合の良い政治の道具として、扱われるようになりました。そして近世ではイエスの教えであるキリスト教を利用し、アジア・アフリカ・北米・南米の先住民や現地の人々を殺戮し、略奪し、強姦し、破壊しとありとあらゆる蛮行の限りを尽くしてきました。そして、彼らはそれをうまく美談のようにすり替えて自分たちの正統性をアピールします。悲しいかな、日本を含めたアジア人は見事に騙されています。
私は皮肉なものだと感じました。
人々の罪を赦すことを目的としているはずのキリスト教が、なぜ人々を殺戮する道具になってしまっているのでしょうか?
イエスの教えが正当に遵守され、政治や権力争いの道具として利用されないことを願うばかりです。
そして、本日はクリスマスです。イエスに変わりまして、この言葉で締めたいと思います。
『皆様に神の祝福がありますことを祈ります!!』